はじめまして、私の名前は熊井太郎です。

1945年に東京都杉並区に生まれました。現在埼玉県に住んでいますが、先代は前橋市、五代前は長野県長野市、さらに遠祖の地は、長野県塩尻市片丘北熊井にあります。熊井の地は南北に分かれていて、それぞれに熊井城跡と熊井神社(諏訪社)があります。

南北の熊井城は守護大名小笠原家の支城で、桔梗が原の戦いで、武田信玄に攻め滅ぼされ、熊井一族は、犀川水系あるいは千曲川水系にそってバラバラに逃れ、逃れ着いた地で土着帰農したのだそうです。

ひょっとすると、映画監督の熊井啓氏ともクロマグロの養殖に成功した熊井英水氏とも、遠く血のつながりがあるかも知れません。

……そうそう、社長になりたての三十代の頃に、名刺交換をしたとき、熊井啓監督と風貌がどことなく似ている、と言われ嬉しく思ったことがあります。

わたくし太郎は、偏差値67の県立高校を卒業しました。二年間の浪人の後、偏差値55の私立大学に入学。大学の四年間は、睡眠時間を削りに削り、励みに励んだ結果、ようやくのことで慶應義塾大学大学院経済学研究科に入学できました。

大学院で初めての授業で、高名な社会思想家に出会いました。戦争中に治安維持法で府中刑務所に収監されていた元国立大の教授でした。大学院生のひとりひとりに笑顔を浮かべながらじっと見つめて話しかけてくる先生の言葉は、衝撃的でした。

「外国には必ず行きなさい。彼の地で学問をすることはない。人の心を学びなさい。特に女の人の心を」

七月、八月、九月の三か月間の夏休みのうち一か月間を利用して、ヨーロッパ各地の美術館と博物館めぐりをしました。ウイーンの美術史博物館で美しい少女と出会いました。妖精のような美しさ!! ただ茫然として見とれるばかり。意を決して、拙いドイツ語で問いかけると、目を見詰め返しながら「ターニャ」と微笑を浮かべて応えてくれました。

「人間の顔をした社会主義」をかかげてチェコスロバキア共産党第一書記に就任したアレキサンデル・ドプチェクを、パパ・ドプチェクと親愛をこめて呼び、ソビエト軍の侵攻を受けてプラハを逃れウィーンに亡命した、ドプチェクを支持する一家の娘さんでした。

「外国には必ず行きなさい。彼の地で学問をすることはない。人の心を学びなさい。特に女の人の心を」

高名な社会思想家の言葉が頭を過っていきました。

文通を繰り返し、翌年七月にターニャを日本に呼んで、日光や京都・奈良・東京を案内するまでに親交を深めました。

しかし、ターニャが来日したその年の秋に、父が心筋梗塞で倒れ、大学院を中退。父が1947年に設立した、問屋から預かった荷物を翌日量販店のセンターに納品することを専門とする、従業員百人ばかりの運送会社に入りました。

二世社長として金のかかる新規事業に取り組んでは失敗し、従業員たちからは「バカ息子」と陰口をたたかれる始末。

しかし、それらの失敗から、

①客単価✕②客数〓売上高✕③店舗数〓総売上高

という経営の基礎を学び取ることができました。

つまり、③の店舗数を増やすには莫大な投資が必要になります。

わたくし太郎が真っ先に取り組まなければならなかったのは、ほとんど投資を必要としない、①客単価と②客数の改善なのでした。

1✕1は1でしかありませんが、1✕7は7、3✕7は21にもなります。

当時の当社の長期借入金総額は、バブル期終焉間近に取得したターミナル用地六億五千万円を含めて十二億円に嵩み、支払利息だけで年間一億円近くも支払っていたことがあります。

数々の失敗を重ね、また従業員たちには賞与を出せないという辛い思いをさせてしまいましたが、わたくし太郎にとっては、父から引き継いだ運送会社が真の大学院となりました。

わたし太郎の高校時代から夢は、小説家になることでした。二年も浪人しながら志望する大学に入れなかったのは、暗記が中心の受験勉強が嫌でならず、小説を読みふけっていたからでした。

ターニャとの恋の行方? もちろん失恋に終わりました。

見合い結婚をした妻との新婚旅行はヨーロッパを選び、ウイーンに住むターニャを訪ねたました。そのときに妻とターニャの二人から同時に冷たい視線を浴びた、と思ったのは錯覚でしょうか。

女の人の心は難し過ぎて、今もって分からずじまいのままです。

でも高名な社会思想家と出会えた経験は、わたし太郎にとってかけがえのない思い出となっています。それだけでも、大学院に進学できてよかったと思っています。

滅びていく家からは、座敷童が逃げていってしまうそうです。

小説家になろうと決めて書き上げた小説『暗黒の川』をオール読物新人賞(文芸春秋社)に応募したところ二次予選を通過。千二百人近い応募者の中で四十人以内に残ることができたのですから自信を深めました。そしてそのときに新人賞を獲得したのが山本一力。

二次予選を通過作品は、たまたま書けただけに過ぎなかった?のに、仕事を忘れて小説を書くことに夢中にさせてしまいました。翌年は一次予選通過、翌々年も一次予選通過のみ。

書くことのみに集中していた三年間、会社の業績はどんどん悪化していきました。

会社はわたくしが創設したものではなく、父からの預かりものです。

倒産させるわけにはいかない。

小説を諦め、仕事に専心しよう。そう決意した月から不思議なことに業績がV字型で回復し始めました。

やはり、会社には座敷童が住んでいるのかもしれません。

自分のこれまでの経験を「ブログ」に書いてみようと考えたのは、心の奥底でどうしても文章を書くことを諦めきれないでいる自分に気づいたからです。

自分の経験を書きを綴ることで、中小企業経営者、二世経営者の方々に少しでもお役に立つことができるなら、会社の座敷童は、わたし太郎が文章を書き綴ることを、きっと許してくれるにちがいありません。そう信じて書き続けてまいります。

ご指導と御鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

御気軽にお問い合わせください