確か以前に読んだことのある大沢在昌の小説だったと思う。書名は忘れてしまったけれど、このような言葉があった。
「きっと何かをしているのだろうけれど、社長が何をしているのか、おれたち社員にはさっぱり分からない」
この文章を読んだとき、思わず失笑してしまった。
わたしにも同じ経験があったからだ。
会社の設立者である亡父は、出社して役員室に入ると、席を並べる叔父の常務と、終日飽きもせずに話ばかりをしていた。仕事らしい仕事と言えば、部長たちが持ってきた書類や小切手帳に代表社印を捺すことと、月一回開かれる部課長会議で、各部署の収支報告を受けるぐらいなものだった。それでも会社は回っていく。そのことが不思議で不思議でならなかった。
わたしは出社するとすぐに部屋に入って、パソコンを立ち上げると、エクセルを開く。
「運転日報」、担当者が日々入力するドライバー・車両別の「売上報告」、「高速料金」、「労働時間と休憩時間」等はすべてパソコンで見ることができる。
それらの資料を見ながら、真っ先にドライバー・車両別損益と時間・距離別の損益を算出する。
もちろん、亡父同様、部長たちが持ってきた書類や小切手帳に代表社印を捺すし、月一回開かれる部課長会議にもできるだけ出るようにはしているけれど、資料作りをしているときが一番楽しい。
経理から前月の「試算表」が提出されれば、経理が作成する「実績資金繰り表」とは別に、「貸借対照表」・「損益計算書」から「資金収支表」作成して「現金・預金残高」を算出し、銀行帳等と照らし合わせて確認をする。
同時に、期の初めに提出された「予算表」から作成した各月の資金残高との乖離を確認し、資金不足が発生する月を計り、少なくともその三か月前に銀行に借り入れをする準備をすすめていく。
取引先や銀行に挨拶に伺う以外は、部屋に閉じこもって終日パソコンに向かい続けている。大沢在昌の小説の中の言葉じゃないけれど、社員たちはやはり、わたしが何をしているかがさっぱり分からないことだろう。
いかにも「経営分析」が得意分野であるかのように書き綴ってきたけれど、実は入社当時、何にも分からなかった。
大学院にすすんで経済学を専攻したけれど、「簿記」と「経営学」にはまったく手を染めたことがなかった。
亡父が育てていた経理課長(公認会計士試験に合格。独立して、公認会計士事務所を開く)が退社するのを待って、書類棚から振替伝票と帳簿類を引き出してはみたものの、悟りの悪いわたしには理解できなかった。
そんなある日のことだった。書店で立ち読みしていて手を取ったのが、『企業分析 経済民主主義への基礎』(山口孝著 新日本出版)だった。働く人たちのために書かれた、とても分かりやすい本だったので、すぐに買い求めた。
家に帰って無我夢中で、五回も六回も読み返した。
大学の一般教養「哲学」の時間に、西田幾多郎門下生として高名な土井虎賀寿(わたしは彼がドイツ語で著わした「華厳経」を所有している)からカントの『道徳形而上学原論』の講義を受けた。
「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない」
この一言が、わたしの胸の中に、染み渡って来た。
大学院を中退して父の会社を継いだ時、恩師である教授から、「この道徳律は、会社経営をするにあたって邪魔になる。捨てなさい」とのアドバイスを受けた。
もしカントの道徳律を心の内より捨て去ることができて、もっと非人間になれていたなら、ひょっとすると会社をもっともっと大きくできていたかも知れない。
しかし、わたくしは捨てることができなかった。
『企業分析 経済民主主義への基礎』の文章を繰り返し読みつつ、著者山口孝の心の内にこの「カントの道徳律」が大きく枝を広げているのを実感じた。
ともかく、わたしがいまあるのは、山口孝の本と出合えたからです。
長期借入金をお願いしている日本政策金融公庫(旧 中小企業金融公庫)の当社担当だったSさんから、「地方銀行の融資担当者向けの一週間泊まり込みの勉強会があるけれど、出席してみませんか」と誘われるまでの分析力を身につけることができたのも、この本と出合えたお陰だった。
霧の中にあった二世社長のわたくしに光明を与えてくれた書物『企業分析 経済民主主義への基礎』は、いまは絶版。「日本の古本屋」で検索してみたところ、わずかに二冊だけ見つけることができました。
埼玉県立図書館には蔵書されていますので、関心をお持ちの方は、お住いの地にある図書館から貸し出しを申し込みの手続きをして下さい。
経営分析が理解できると不思議なことに、簿記を学ばなくても、三級簿記の試験問題ぐらいなら、百問ちゅう九五問は解けるようになります。
わたしは、経営分析を身につけて会社を守り抜くのが社長の仕事だ、と信じています。