わたくし太郎が組織を作っていながら、とうとう組織を生かしきれなかった。
それには訳があった。
もう半世紀以上も前のことになる。
大学の一般教養「哲学」の時間に、西田幾多郎の高名な門下生として知られる教授から、カントの『道徳形而上学原論』の講義を受けた。そのときに聞いたたったの一言が、わたしの一生を決めたといえる。
「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段として使用してはならない」
学部の四年間は、朝から晩まで、勉強・勉強の毎日だった。その結果やっとのことで進学できた大学院を中途でやめて父の会社を継いであり間もなくのこと、こんな出来事があった。
何の前触れもなく会社を訪ねてきた恩師が、日本橋への集荷から戻ってトラックから降りた私を見たとたんに、なんと!涙をぽろぽろと流し始めたのである…………。
「これから会社経営をするにあたって、きみの好きなカントの道徳律は邪魔になる。捨てなさい」
恩師は潤んだ声で別れ際にこう言うと会社をあとにした。
恩師の言う通り、もしカントの道徳律を心の内より捨て去ることができていたなら、ひょっとすると、会社をもっともっと大きくできていたかも知れない。
「人間の意思というものは行動することを前提にしている。そうでなければ、それはただの思考であり、せいぜい願望でしかない」(内田康夫「小樽殺人事件」)
自らも過つことを知っていたわたしは、心の鬼と化し、信賞必罰という刃をふるうことがとうとうできなかった。
ある日のこと、運行係長がわたしの部屋に来て問うた。
「毎日毎日こんなに大変な思いをしているというのに収益が全然あがりません。運輸部はいったいどうしたらいいのでしょうか」
その席に運輸部長を呼んで、資料の作成を求めた。
「解決策が見つかるかもしれないから、一度、ルート別に損益をだしてみたら」
わたしの言葉に運輸部長がこう答えた。
「そんな資料をつくる時間があるはずないじゃないですか」
高速料が嵩んでいることを注意したときも、「高速を使った方が人件費が助かるじゃないですか」といって一顧だにしようとしない。
営業利益がマイナスになった時の言い訳が次の通りだった。
「売上総利益がでているのに営業利益がでないのは、一般管理費の負担が重すぎるからです。営業利益を出したいなら、何もしていない本部社員の給料を引き下げればいいじゃないですか」
どうも現場で働く社員たちはみな、本部の社員たちは空調の効いた部屋で何もしないで気楽な毎日を過ごしていると思い込んでいるらしい。
しかし何事も長短の両面を併せ持っている。
運輸部長に対する問屋さんからの評価は、非常に高かった。
「どんな無理を言っても仕事を引き受けてくれる。本当にありがたい」
わたしはこの評価を無視できなかった。
そんな彼に対するわたくし太郎の沈黙は、「カントの道徳律」を隠れ蓑にした、単なる放任主義にすぎなかったと、いまにして思う。
しかし、会社の目的は収益を出し続けることにある。
収益を上げられないような運輸部長は、即座に役職を奪うべきだった。
わたしは組織を作りはしたものの、とうとう、運送会社としての要である「人財」としての運輸部管理者を育成できないままで経営者としての人生を終えた。
それでもなを、いまだにでも「カントの道徳律」をいまだに捨て得ないでいる。
「カントの道徳律に惹かれたのは、あなたのこころねがとても優しいからよ」(老妻の言葉)
さて、また脇道に逸れてしまった。
前回に引き続いて、経営改善計画書作成のための過去三期の財務推移、のうち二期目の検討をしてみることにする。