今日の余談は、小説に手を染めたことのない人には、まったく興味がないかも知れません。どうぞ読み飛ばしてください。
中上健次を見出した某大手出版社の元編集者は、「枯木灘」の原稿に目を通していたときに、背中がゾクゾクしてどうにも震えを押さえることができなかった、と述べています。
人をゾクゾクさせるような特異な経験を、わたしはなにひとつしていません。
「お前のような甘えん坊で、苦労をしたことない人間が、小説などが書けるはずはないではないか。研究に没頭しろ」
モノになろうとなるまいと、わたしは書かずにはいられなかったのですが、そのような助言を、大学院の同じ研究生仲間から面と向かって、受けたことがあります。
しかし心の奥底では、大学院を中退して父の会社を継いでから後も、仕事を投げ捨ててでも、人さまが決してできないような体験をすべく、暗黒の荒波の中にみずから飛び込んでいくべきではないかと、できもしない誘惑に駆られ続けてきたことは確かなのです。
内田康夫の長編推理小説に「志摩半島殺人事件」という作品があるのはご存知でしょうか。
流行作家となった元暴力団員が、死体となって英虞湾に漂流しているところを、フェリーの船長に発見されたところから物語が始まります。
人は自分に都合のいいところだけを切り取ってモノを言う生き物だ、と言われますけれど、敢えて文章をそのまま書き写すことにします。
「自作解説」で、内田康夫は次のように言っています。
「日本の文壇はどういうわけか私小説を尊重する姿勢のまま、ずっと経過してきたように思います。
自分の体験や経験したこと、生い立ちの特異性などを小説に仕立てるのは、創造性という面から言えば、ほとんど価値がないにひとしいのではないでしょうか。
小説を「創作」というのであれば、物語そのものを「創作」すべきではないのでしょうか。
私小説という名の「体験談」を珍重する風潮ばかりが強ければ、異常体験をしなければをいい作品が書けない、とういことになりかねません」
小説の文中でも、刑事竹林にこう言わせています。
「近ごろの小説ときたひには、異常体験記みたいなものばかりじゃないか。(中略) 黒人のオンリーだったとか、ソープランド嬢と結婚したとかいう異常体験を自慢たらしく書いた作品に、なぜ出版社や評論家や、ひいては社会が、温かい手をは差し延べるのかが分からない」
この歳になってはもう異常体験をする元気も勇気もありません。ただ書くのは好きですから、わたしの文章の師斉藤信也氏(元朝日新聞記者・随筆春秋元代表)が生前「最高齢での新人賞を狙っている」と語っておられましたが、代表者を引退したのを機会に、予選通過もままならない状態ではありますけれど、わたしもまた師を真似て、最高齢での新人賞を目指して挑戦し続けていこうと考えています。
またまたテーマとは関係のない駄弁を弄してしまいました。本題のキャッシュフロー計算書(資金繰り予測6月)に移りましょう。
これから同じような内容が続きますが、損益計算書予算・貸借対照表予算・利益金処分案の三つからいかにして「資金繰り予算」を作成するかを学んでいただきたく思います。
ただ眺めているだけでは、何のお役にも立てません。
各勘定科目の数字に基づいて、ご自分で実際に取り組んでみて下さい。