遠い遠い学生時代に、もう亡くなってしまったけれど、学部違いにもかかわらず、どういうわけかわたしに目をかけてくれた法学部の教授がいた。
一般教養の「法律」と「英語読本」の時間に、指導を受けただけなのだが、何故かとても親しく接してくれて、研究室だけでなく自宅にも呼ばれ、料理研究家の奥さんから手料理をごちそうになったこともしばしばだった。
一橋を出られた商法の専門家で、著書もたくさん書かれていた。
「法律」の講義で、「基本的人権の尊重」(憲法第十三条すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)と「公序良俗」(民法第90条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする)のこの二つの条文だけでいい、生涯にわたって忘れないでいてほしい、との言葉がいまでも心に残っている。
勉強に勉強を重ねてせっかく入った大学院を中退し、心臓を患った亡父に請われて会社を継ぐことになった旨を報告するうためご自宅に伺った。
書斎に招かれると、涙をポロポロこぼしながら、森田公一とトップギャランが歌う『青春時代』を卓上蓄音機にしがみつくようにして聴いておられた教授を、奥さんは温かく優しいまなざしで愛おしそうに見つめられ、「しばらく声をかけずに、このままただ見守ってあげてください」と静かにおっしゃると、「いまお茶をおいれしますね」、といわれ部屋から出て行かれた。
確か1976年8月に『青春時代』がリリースされて、一か月が経った9月の半ばのことだったと思う。
卒業までの半年で
答えを出すというけれど
二人が暮らした年月を
何で計ればいいのだろう
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は
道に迷っているばかり
二人はもはや美しい
季節を生きてしまったか
あなたは少女の時を過ぎ
愛に悲しむ人になる
青春時代が夢なんて
あとからほのぼの思うもの
青春時代の真ん中は
胸にとげさすことばかり
ドーナツ版が擦り切れてしまうのではないかとおもうほど繰り返し繰り返し、飽くことなく耳を傾け、「道に迷っているばかり」、「胸にとげさすことばかり」の歌詞のところにくるたびに、教授は「うおー」と声を上げ、啜りあげるのだった。
確かに、わたしの青春時代も、「道に迷っているばかり」だったし「胸にとげさすことばかり」であった。
でもわたしは『青春時代』の前にリリースされた『下宿屋』の歌詞の方が好きだ。
窓に腰掛けあの人は
暮れ行く空見つめつつ
白い横顔くもらせて
今日は別れに来たという
だらだら坂のてっぺんの
あの下宿屋のおもいでは
泣いて帰ったあのひとと
あとにのこった白い花 白い花
いずれも阿久悠の作詞だという。
こんなにも短い詩で、教授を泣かせに泣かせ、わたしの胸をも詰まらせてしまう。
阿久悠とは実にすごいひとだ。
しかし、ふたつの歌詞の中に登場する男と女に、なぜ別れが訪れるのだろうか。
「心に傷を負った男性は、井戸で水をくんでいる清らかな乙女や、海辺に住む女性と結ばれる。彼女たちは、水の力を体現しており、男の心を洗浄する。ただし、男の身体から除去された罪や汚れは、女の身体に付着して彼女のその後の人生を苦悩させる要因となる」
文芸評論家島内景二の『読む技法 書く技法』の中の「水の女」に書かれた文章が、男と女に別れが訪れる謎の紐解きとなるかもしれない。
教授の涙と、教授を見つめる奥さん優しいまなざし、そしてご馳走になった美味しい手料理を思い出して、何十年ぶりかに、youtubeで『青春時代』と『下宿屋』を聴いてみた。
妻がすぐ傍に座り、『青春時代』を口ずさみながら、耳元でささやく。
教えた学生さんはそれこそ数えきれないほどいるのでしょう。
でも素顔を見せてくださったのは、きっとあなた一人だけよ。
それに奥さんもとても素敵。
わたしなんか大学で、そんな先生には、ただのひとりも巡り会わなかったもの。
緊急事態宣言が解除されてから後も、コロナ患者数は収まるどころか、増え始めています。もうしばらくの間、県別のコロナ患者数の変動を見ていこうと思います。