息子から「ニーチェって何をした人」と電話で尋ねられた。
「経営」と「ニーチェ」との関りなど、わたしのようなものに分かるはずもない。
大学の教養課程哲学の時間に、西田幾多郎の愛弟子であるニーチェ研究者から講義を受けえたことがあり、大半の学生が大教室の後ろでたむろし雑談を交わしているなかで、学生がまばらな前列の席で、一所懸命に聞いていた。
しかし、何しろ半世紀以上も前の事です、全部忘れてしまいました。
大学時代のノートはもちろんのこと、小遣いを貯めて買ったニーチェ全集も火事に遭い、マルクスやシラー全集、ウイーンの友人から贈られた絵画全集、レコードとともに、すべて燃え尽きてしまいました。
でも息子の声を、もう一度勉強しておきなさいという「神の声」と思い、本棚を探したところ、大阪大学名誉教授、ベルリン自由大学名誉博士の、わたしよりわずか三歳年上の三島憲一の著『ニーチェ』を見つけました。
三島憲一の著をこの一週間、三回も読み返したのですが、もともとそれほど頭がいいわけではないもので、難しすぎて、まだ理解できない個所が多々あり、わかるまで読み返すつもりですが、まだまだ時間がかかりそう。
三島氏の言葉をそのまま借りるなら、「哲学者はさまざまに解釈してきた。重要なことは世界の変革である 」(マルクス)、「哲学者は生をさまざまに解釈してきた。重要なことは自然に向けての価値の転換である」(ニーチェ)ということに要約できる。
マルクスの「世界変革」はすぐに理解できました。
でも、「自然に向けての価値の転換?」
分からない。
あらためて今一度丁寧に読み返さなくては……、、と思っていたところ、日本文学を専攻した妻に言われた。
①自然には山・川・海・森林・草木のほかに、②「ありのままの姿」という意味があるでしょう。
この場合の「自然」の意味は①ではなくて、②の「ありのままの姿」を言っていると思う。
なるほどそう言われてみれば、「自然に向けての価値の転換」の意味が通じる。やはりわが妻の読解力は凄い、と再認識した。
しかし次のページに書かれた文章は、一読しただけで理解できた。
「人生は戦いなのだから、その現実を素直に認めて、欺瞞的な理想主義や神の世界など考えないことだ」
この世は確かに辛いかもしれないけれど、来生にはきっといいことが待っている、などというような戯言には、絶対に騙されてはいけない、耳をかしてはならない。
仮に来生というものがあったとしても、同じことが繰り返されるだけだ(永遠回帰)。
とにもかくにも、生きている限り、己を充実・成長させることに全力を尽くすしかない(超人)。
わたしは「超人」を「絶えず、己を超えようと努力し続ける人」と理解しました。
努力し続ける人には、いつも新鮮な魅力を感じる。
ニーチェの言う、「永遠回帰」と「超人」の二つの項はわたしなりに理解でき、素直に心の中に染み入ってきたのであった。
わたしも既に76歳。
来世など考えず、生きている間は、己を充実・成長させることに全力を尽くしていこう、そのように改めて思うのだった。
質問してきた、息子に感謝感謝である。