わたくしの母方の叔父には、旧制中学校の五年を飛び級で三年で終え、旧制高等学校に入学した超秀才がいる。
その叔父はちょうど今の私の年齢で、ふろ場で脳梗塞になり、そのまま黄泉の国に旅立っていってしまった。
新聞に掲載されたことのある叔父のエッセイを、ひとつの記念碑として、このブログに残しておく。叔父の名は鈴木長久という。
横浜外人墓地は、国鉄石川駅から元町通りを抜けると、右側の丘の斜面にひろがっている。幕末・明治の開化期から現在までに、異国で昇天した人たちとその家族が約四千二百の墓標の下で眠っている。鉄の柵が周囲に張りめぐらされているが、外の道路からも墓地の中を見ることができる。つい先日のこと、わたくしは花束をかかえた二人の外国婦人のあとについて、まるで同伴者のような顔つきで、下の入り口から墓地の中に入り込んだ。
十字架が並んだところという程度の知識しか、わたしは持ち合わせていなかった。ところが中へ入ってよく見ると墓地の中は、三つの宗派に整然と区分けされているのに気付いた。丘の下の方の道路に背を向け立ち並んでいる墓石には、「ダビデの星」が彫り付けてある。
ダビデの星。このマークは、あっ! ユダヤ人の墓だ! 正確に言えば、ユダヤ教徒の墓なのである。
紀元前千年の昔、ユダ族を率いてカナンの地に華麗なるユダ王国を建設したのは、ダビデ王でありその子ソロモンと共に全盛を誇った。ユダヤ人は、その栄光の日々をいまだに忘れてはいない。その後イエスという一人のユダヤ人が、ヨハネから洗礼を受けて新しい分派宗教をつくった。これがキリスト教である。ユダヤ側からみれば、明らかに異端者であり、新約聖書を否認するのは当然かもしれない。つまり、ユダヤ問題は、ここに発生し本質的には人種の問題ではなく宗教の問題なのである。
第二次世界大戦を通じナチは、六百万人のユタヤ虐殺(ホロコースト)を強行した。だがユダヤ人に対する差別と虐殺は、ヨーロッパ各国のクリスチャンにとっては、こく当たり前のこととして通用し、ナチ以前には、帝政ロシアの虐殺(ポグロム)が有名である。「屋根の上のバイオリン弾き」をまだ観ていないが、ロシア南部のウクライナにおけるユダヤ追放がテーマである。ヨーロッパ各国では、ユダヤ居住区(ゲット)を指定してそこに押し込め、土地私有を禁止し、職業の自由はない。ドイツでは、ユダヤ人の大学入学の枠を定員の五%以内に制限したりしている。どのクリスチャンでも頭の中にあるユダヤ観のホンネは『彼らは人間の顔をしているがその正体は悪魔である。だから差別は当然であり、仕方がない』。ヒットラーは、このホンネの部分を綿密に計画をねり、大規模な形で大虐殺を断行したひとりの男に過ぎない。
「汝らのなかで罪のないものは、ヒットラーに石を投げてみよ」といったら、はたしてローマ教皇庁を含めていくたりの人がかれに石を投げられるだろうか。
一九〇五(明治三八)ドイツ生まれのユダヤ青年が、ニュートン物理をのりこえて世界の常識を根こそぎひっくり返す「相対性理論」を発表した。当時二六歳のアルベルト・アインシュタインである。
人類の質的発展に科学的貢献した人は誰か。と問われたら、人々は何と答えるだろう。……カール・マルクス(資本論)フロイト(精神分析)そしてアインシュタイン、いづれもユダヤ人である。だが、ヨーロッパのユダヤに対する偏見は異常である。ノーベル物理学賞受賞者で高名なフィリップ・レーナルト(ドイツ)は、公開の席で胸を張って公言した。『アインシュタインの相対性理論は、ドイツの科学ではなく、ユダヤの科学である。だからその理論は誤りであり、不潔である』
丘の中腹に並んでいるのは、ギリシア正教とロシア正教の信者たちの墓標である。キリスト教は旧教(ローマンカトリック)と新教(プロテスタント)に分かれ、このほかに一一世紀のころローマ教会から分派したギリシア正教(コンスタンチノープル)さらにそれから分立したロシア正教がある。これらの墓碑には十字架はない。
遠くから見ると図案化された電柱のような標識である。日本のキリスト教徒は、およそ八七万人(旧教三七万人のうちロシア正教が一万人。新教五十万人)。ロシア正教会は神田駿河台にニコライ堂が目につくぐらいで、めったに見ることがない。そして丘の上の方には、山手通りに面し、クリスチャンの十字架が林立してみえてくる。
外国人墓地は、丘の下の方からユダヤ教、ギリシャ正教(ロシア正教)キリスト教(新旧)の三種の墓碑が整然と区分して建てられているのだ。わたしは墓地の中へ丘のふもとの入り口から、二人の外国婦人のあとについて入り込んだが、その二人は、どうやらロシア人らしく中腹の墓石の前に腰を下ろして話し合っている。その前を通りかかると、肥った婦人の方が日本語で話しかけてきた。婦人たちは、やはり白系ロシア人で、戦前から日本に住み、今日は亡父の命日なのでお参りに来たという。そして雑談のあと革命前の祖国ロシアのことを話しはじめた。
わたしは、三百年つづいたロマノフ王朝最後のツアーリ(皇帝)ニコライ二世とその家族たち、アレクサンドル皇后、娘四人、皇太子アレクセイの末路は、ナゾに包まれあいまいな点が多いので訊いてみた。
「そう。ツアーリ一家は、チェコ軍に銃殺されたのヨ。七人の家族全部……」と年取ったほうの婦人が云うと、もう一人の若い婦人が、いきなり大きな声を張り上げ、「あれはジュー(ユダヤ人)が殺したのよ。そうよ、まちがいないわ」
二十世紀最大のミステリー、ロマノフ一家の最期……一九一八年七月一六日、ボルシェヴィキによって幽閉されていたシベリア鉄道の鉱山町エカチェンブルクで、一体何が起こったのか。末娘アナスタシア生存説など、ふたりのロシア婦人たちは、どう推理しているのか、訊きたいことが山ほどあったが、この言葉を聞いてわたしは、断念した。目礼をしてその場を去ろうとすると、やや肥り気味の婦人が静かに立ち上がった。まだ若かりしころ、女学校で音楽教師をしていたこの婦人は、若いほうを促すようにして亡夫の墓に向かって張りのあるアルトで歌いはじめたのである。
「あァー この歌は、リリーマルレーンではないか」
そうこの歌は、戦場で生き残った兵士たちをねぎらうものだったのか、それとも死への誘ないの歌だったのか、わたしには分からない。第一次世界大戦の末期、連合軍の兵士たちの間で愛唱された歌に「ティペラリー」がある。この歌は、兵士たちによって血なまぐさい戦場を駆け抜け、関東大震災のあとまで日本でも唄いつがれていた。それから二五年後の第二次大戦下の一九四一年六月十四日夜九時五十七分、ヒットラーが占領したユーゴスラビアのベオグラード放送の電波にのって、ひとつの歌声がヨーロッパ戦線の全将兵に流れてきた。無名の新人女流歌手、ドイツ生まれのララ・アンデルセンの歌声は、生死のはざまをさまよう兵士たちの心をとらえた。戦うことの空しさと生きるよろこびを語りかけるかのように。そして銃後に残してきた肉親たちや恋人への限りない追憶。この歌声は、いくつもの国境をこえて味方も敵の間でも唄いつがれてきた。もう四十年も前の戦場の歌がふたたび日本にも上陸し、第二のブームを迎えた。
アイゼンハウアは言った。『ヒットラーは、人間悪の限りをしたが、第二次大戦中、人々に生きるよろこびの瞬間を与えた、ただ一人のドイツ人である』
ふたりの白系ロシア婦人がドイツ語の原語で唄うリリー・マルレーンを聴きながら、わたしは、丘の上の正門から外人墓地の外に出て、山手通りを「港が見える丘公園」へと歩いて行った。