今日は色々なことがあった。雪が降った。来春、茨城県の歯科医師と結婚する義妹が、衣装合わせを兼ねて、金沢から遊びに来た。次男が通う幼稚園へ、家族揃って、展覧会を見に行った。粘土で作った怪獣は上手に出来ていた。帰りに「アショカ」でカレーを食べた。

 今夜はこれから、長男が七歳になったお祝いをする。妻は台所に居て、義妹が子供たちを風呂に入れてくれている。時間が空いたので本を読んでいた。電話が鳴る。茅ヶ崎に住む叔父からだった。

 母のすぐ下の弟で、一歳違いの七十一歳だ。二年ほど前に一度、軽い脳溢血を起こしたが、今は元気にしている。頭もはっきりしている。

 「お母さんの具合はどう?」

 穏やかな口調だった。心配を掛けていることをわび、私の知るかぎり詳しく、母の病状について話した。

 「一進一退が、長くかかりそうだね。病院では細かいところまで患者に手が行き届かないだろう」

 「沢山の寝たきり老人がいるし、その面倒を見る人の数が少ないのだから、仕方がないです。下の世話だって決められた時間にするしか……」

 いきなり叔父が怒鳴った。

 「病人だって人間だ。たとえどんなに忙しかろうと、物のように扱うのは許せない。決められた時間にだと、あんまりだ」

 一瞬の間、言葉が途切れて、そのまま電話は切れた。窓の外を屋根から雪が、ドサッと崩れ落ちた。

 昨年の今日、まだ元気だった母は、長男の誕生日を一緒に祝ってくれた。今日も母のことを忘れたわけではない。妻は祝いの料理を真っ先に病院まで運んだ。

 一体全体、叔父は私にどうしろというのだ。「病人も人間だ」。分かっている。

四十代の文章修行(平成元年十二月課題「迷う」)

講評
 今回も、手を入れるところなしでした。平和で幸福に見える家庭の内側にずっしりと重くのしかかっている老人問題。そこには、ゆたかな未来に向けて生き始めようとしている若い世代と、生の時間の大半をすでに終え、死を待つだけの残り時間をベッドで過ごす老いの世代の、残酷なまでに対照的な光景がある。両者のはざまにいて、なすすべもなく立ちすくむ筆者のつらさが、乾いた筆致で表白されています。これまでの中でも、一番完成度の高い作品のように感じます。

 短いセンテンスを畳み込む語り口も好調で、文章に緊迫感を醸し出しています。いつもこのような出来を維持されたら、もう私どもの出る幕はありません。