「中秋の名月」は10月1日だったけれど、わたしが仰ぎ見たのは、西空の中空に浮かぶ、まだ薄暗い早朝のことであった。
友人たちはみな、勉強が遅くまでできるからと、夜型の人間ばかりだった。
でもわたしはなぜか、幼いころから、3時ごろには起きていた。
といっても勉強はたまにするだけで、ほとんど本を読んだり、音楽を聴いたり、絵をかいたりして過ごすことが多かった。
そうそう庭にでて、星空を見ることも大好きで、覚えたばかりの星座の目で追いながら、飽きることもなく、いつまでも空を見上げていたものだ。
「亡くなったお祖母ちゃんも、幼くして亡くなったあなたの妹のれいこちゃんも、みんな星になって、わたしたち家族のことを見守ってくれているのよ」
亡き母から言われた言葉だ。
ぜひともそうであってほしいと、幼いころ、「どれが祖母の星で、れいこの星はどれだろうか」、とじっと見つめて探し続けたこともあった。
しかし、学校に通うようになってから、夜空に輝くすべての星々が、実はみんな、燃え盛る灼熱の太陽と同じ仲間であることを教えられ、そしてどの星々も、わたしたちと同じように、いつの日か燃え尽きてしまう、はかない存在でしかないことを知った。
きっと夜空に輝く星々のなかには、わたしたちの太陽と同じく、地球に似た惑星を持ち、無数の生命を育んでいて、中には、私みたいに早起きをしては庭に出て、飽くことなく銀河を見上げ、「死んだおばあちゃんがなった星はどれなのだろうか」と探している生命体もいるのに違いない、などと空想もしていた。
そんな思いを、高校時代に、文系で学年一番を維持し続けていた、仲の良かった友人に話したことがある。
「馬鹿か、お前は。おれたちが今考えなければならないことは、いまこの日を何をして生きるかだろう。高校生なのだから勉強に集中することだ。おれたちはな、やがて恋をして、好きな女と結ばれ、子どもを産み、家族を養うなどのあくせくとした日々を過ごしさなければならないときが必ずくる。空想じゃ飯は食えない。いかにして生活力を養っていくかに重点を置いて、いまこの時を、全力を尽くして過ごしていく以外ないだろう」、とこっぴどく叱られてしまった。
友人が見抜いたように、わたしは幼いころから、今しなければならないことから、いつも逃げまわってばかりいた。
亡父から会社を継いでからも同様である。
「係数」勉強をしなければならない肝心な時に、何の必要もない「レマルク」や「ドストエフスキー」の小説を、早起きしては机に向かい、辞書を片手に、「英語」と「ドイツ語」でとつとつと読み耽り、どうにかこうにか読み終えることができたのは、ほんの数10冊にすぎない。
原典を読んでいる時間のすべてを「係数」の勉強に充てていたら、ひょっとすれば、もっとまともな経営者になれていたかもしれない。惜しいことをしたものだが、後悔先立たずである。
でも、好き勝手なことばかりをし続けてきた人生だったけれど、たったの一つだけ、どうにかこうにか、会得できたのが、「係数」だった。
自分の葬儀は「無宗教」でおこなってほしい、とすでに老妻に申し伝えてあるほどに信心がうすいこのわたしが、「係数」を会得できたことを、亡父が床の間に残していった「観音像」に向かって、日々、心の中で手を合わせているのだから、人間とは実に不思議な生き物である。
さて「まえ書き」がまたまたまた長くなってしまった。
「経営計画」を立てるにあたって、基礎となるのは、「損益分岐点分析」だろう。
経理責任者から月々提出される「試算表」から「損益分岐点分析」を宿題として課すことになったが、「売上総利益」までは数字が一致するけれど、「販管費」の数字がどうしても合わない、と事業部長たちが頭を抱えている。
「総合損益分岐点分析」は別に頭をひねらなくてもできるけれど、各「事業部門」の「損益分岐点分析」を行うには、「総務部門」や「営業部門」に計上された、「売上高」・「仕入」・「外注費」の扱いがきちんと理解できていないと、「販管費」の数字が合わなくなり、したがって肝心な「部門別利益」に差異が生じてしまうことになる。
T-lojostics 社は、わが社と同じように、「運輸部門」・「物流加工」・「営業」・「総務」の4つの組織から構成されている。社長の了解を得て資料を添付しおいた。「営業」と「総務」が「一般管理費」に該当。添付資料の「総務」の「売上」・「仕入」・「外注費」の処理に刮目して自らの力で再加工を試みてほしい。