一人で机に向かっているとき、作成している資料とは何の脈絡もなしに、突然、深い後悔の念に苛まれて、資料作りにまったく手が付かなくなることがある。

そんなときには、いつも資料作りを中止して、小説を手にする。

昨日本棚から手にしたのも、もう何十回となく読み返したことのある、藤沢周平の長編小説『蝉しぐれ』だった。

最終章「蝉しぐれ」で、主人公の郡奉行牧助左衛門が代官屋敷に戻ると、助左衛門(幼名文四郎)の幼馴染ふく(元藩主の側女お福様)からの一通の手紙が届いていた。

「このたび白蓮院の尼になると心に決め、この秋に髪をおろすことにした。しかしながら今生に残るいささかの未練に動かされて、あなたさまにお目にかかる折もがなと。簑浦まできている。お目にかかれればこの上の喜びはないが、無理にとねがうものではない。万一の幸運をたのんでこの手紙をとどけさせる。文四郎様まいる」

簑浦の湯宿には酒肴の準備が整えられていた。

「文四郎さんの御子が私の子で、私の子供が文四郎さんの御子であるような道はなかったのでしょうか」

「それができなかったことを、それがし、生涯の悔いとしております」

「本当に?」

「……」

「うれしい。でも、きっとこういうふうに終わるのですね。この世に悔いを持たぬ人などいないのでしょうから、はかない世の中………


本を閉じてからも、この最後の文章が、いつまでも頭に残ったまま。

さて本題。

新たな経営分析資料に「標準偏差」が用いられるようになったことは、これまでに述べてきた。

この標準偏差を使って、「収益性をはかる指標」のひとつめとして、A社の「総資本経常利益率」が業界でどこに位置するかを調べてみたい。




この表から浮かび上がってくるのは、「資産」をもっと有効につかえないのか、という課題である。

 暦年ごとの「標準偏差」は手元にはなく、最新の「標準偏差」を使って、過去六年間の分析を試みた。