動物行動学の権威日高敏隆氏の書物に出会えたときほど、読書を続けてきてよかったなと実感できたことはなかった。
なかでも『利己としての死』・『プログラムとしての老い』を読んだときは、ほんとうに救われた思いがした。
書棚からこの二冊を抜き出して婚家に持って帰った義妹(薬剤師)は、本の空白を埋め尽くした書き込みに驚き、「義兄さんの読書は闘いと同じね」、と電話口で妻に話していたらしい。
まさか!? 義妹の言葉は少しばかり買いかぶりすぎている。
理解力が人よりもいちじるしく劣っているがゆえに、見落としのないように、何度も何度も丁寧に読み返してみた、ただそれだけのことにすぎないのである。
もう一冊の本、『人間は遺伝か環境か? 遺伝的プログラム論』(帯には、我々の人生を決めているのは結局のところ何なのだろう? 、との文言)も何度も読み返した。
「第三章人間−この集団で生き育つもの」の「親や教師の役割」に、アリの絵について書かれている考察(『生きものの世界への疑問』という日高氏の著書にも同じ内容が書かれている)を皆様にもお伝えしておこう。
曰く、「実物を見せるに限る」などとよくいわれるが、実物教育必ずしもそれほどの効果を上げえないことがある。
「一年生から六年生までの生徒にアリの絵を描かせました」
一回目 そらでアリを描かせた。
二回目 実物を見せながら描かせた。
三回目 実物を見せながら、先生がアリのからだの構造を、「体をよく見てごらん。頭があって、胸があって、それからもう一つくびれがあって、腹になっているだろう。そして胸には肢が六本生えているだろう。肢は一度上に上がってから、下に折れているだろう。触角は頭から横向きに生えて、それからきゅっと折れて前に向かっているだろう」、と説明したあとで描かせた。
一回目に何度も描いたり消したりしたあげく、おずおずと提出した子の場合には、実物教育の効果はめざましいものがあった。
これと対照的に、自信たっぷり、力強い線で一気に書き上げたような子の場合には、二回目の絵にほとんど「進歩」はなかった。
三回目は、みなよく描けていた。一回目、二回目とはまさに格段の差で、正確なスケッチになっていた。
「実物を見なさい」といわれても、どこをみていいのかよくわからない。そういうときに親や先生が、「ね。こうだろう。どっち向いている?」といってやる。これがきっかけをつくる。親や先生はただそのために必要なのである」。
なるほど、なるほどである。
日高氏の結論:「この絵はじつにおもしろかった。一つには、子供の目にアリがどう映っているかがよくわかったからであるし、二つには実物を見ても、ものはそれほどきちんと見えるものではないことがわかったからである」
わたしにも同じような経験がある。
じっくりと時間をかけて観察をしたつもりなのに、後で頭の中で再現を試みても、まさに濃霧の中にでもいるように、映像がどうにも明確な形で浮かび上がってこないのである。
世の中には、一度見ただけで街の風景を写真のように頭の中に刻み込み、カンバスにそのまま再現できる人がいるという。
また、旧制中学の五年をわずか三年で終えた母方の叔父は、紀元前8世紀末の吟遊詩人ホメロスの『イリアス』・『オデュッセイア』(筑摩世界文学大系 – 1971/5 呉 茂一(翻訳))の全文、といってもわたしがそのときに読んでいた頁の両面だけだが、一字一句違うことなく、空で言ってみせたのには、心底驚いた。
同じ血が流れているというのに…………、 何と嘆かわしいわたしなのだろう。
「何度も描いたり消したりしたあげく、おずおずと提出した子の場合には、実物教育の効果はめざかしいものがあった」と日高氏は書いておられるけれど、わたしの場合は悲しいことに、むやみにあっちこっちにぶつかり、ただたんに苦心惨憺するばかりなのだから、実に情けない。
でもあっちこっちにぶつかりながらも45年をかけ、どうにかこうにか経営分析の手法だけは会得できたように思う。
ただ経営分析の頁を見ているだけでは、日高氏がおっしゃっているように、「それほどの効果を上げえない」。
頁に書かれた資料をひとつひとつを写しとり、自分でも再計算をして確かめていただきたい。そうすれば、わたしが習得するのに45年間も要したというのに、息子がたったのひと月もかからずに経営分析の手法をものにできたように、皆さまも経営分析では一頭地を抜くことができるはず。
長々と文章をそれもいかにも偉そうに書き連ねました。
次回からは頁を改めて、また「年度予算の作成」に取り組んでいくことにしましょう。