今日も連日の暑さに負けて、何もする気が起きず、自室の畳の上に横になったまま小説を読んで過ごした。

書棚からたまたま手にしたのは、三十年も前に読んだことのある東野圭吾の『学生街の殺人』だった。

482頁の338頁目に、「アガサ・クリスティーの短編集を読み終えた(主人公)光平は、(中略)今読んだ小説の内容を反芻した。(中略)小説の内容を一通りおさらいする」と書かれてあるのが目にとまった。

わたしもまた読み終えた小説の内容をおさらいし、設計図をしっかり頭に畳み込むために、何度も繰り返して読む。

でも何年かして読み直すと、すべてを忘れてしまっていて、耄碌したことに加えて、もともと記憶力が弱い人間なのだろう、初めて読む小説のような気がしてくる。

今回もそうだった。

わたしの心の重さは、幼いころから、それこそ数えきれないほどの失敗を犯し続けてきたことによるもので、小説に没頭するのも、その犯し続けてきた失敗を、ひと時でも忘れたく思うからでもある。

亡父から会社を引き継いだ時のことだ。

「なんだ。大学院まで進んだのに、結局は肉体労働が中心の運送会社の社長でしかないのかい」

身近な人から、そういわれて嘲笑されたことがあった。

387頁。

「ずっと思っていたんだよ。自分の個性や才能を生かして、組織に飲み込まれずに生きていければいいなあということをね。この広い世界のどこにも自分の代わりをできるものはいない,そういう仕事に憧れたわけだよ」

「あたしだってそうおもうわ」(中略)「みんなそう思っているんじゃない? それが普通よ」

「サラリーマンは嫌だと思っていたわけだよ。特に製造業のサラリーマンみたいのはね、(中略)組織の歯車の代名詞のように思えてね。あんな人生は送りたくないとか生意気なことを考えていた」

「みんな自由が好きなの」

「だけどさ、僕たちがこうして豊かに暮らしていけるのは、そういう人たちのお陰なんだよね。僕たちは、彼等を尊敬しても侮辱する資格なんか全くないはずなんだ。誰かがやらなければならないことを彼等はしているんだから」

このような言葉に出会えるのも、東野圭吾の小説を読む楽しみのひとつでもある。そしてもうひとつ。

405頁。

光平のアパートに訪ねてきた父が言う。

「どう生きるべきかなんてことは、ちょっと年をくっているからといって話して聞かせられるものじゃない。自分でも満足に分かっとらんのだからなて」

「どんな人間でも、一種類の人生しか経験することはできん。一種類しか知らんわけだ。それなのに他の人間の生き方をとやかくいうことは、傲慢というものだ」

「道を間違ったらどうするんだい?」

光平の問いに父はこう答える。

「間違ったかどうかも、本当は自分で決めることだと思うがな。間違えだと思えば引き返せばいい。小さなあやまちをいくつも繰り返しながら、一生というものは終わっていくものではないかな

「中には大きな過ちもある」という光平の問いに父は答える。

「その場合でも、その事実から目をそらしてはいかんだろうな。償う気持ちを宝にして、その後のことにあたるべきだろうな。それでなくては、生きていけん。たぶん、な」

こうした有難い言葉に出会うたびに、いつも、信仰心などは少しもないのにも拘わらず、思わず心の中で手を合わせている自分に気づく。

こんなわけで、小説を読むことからどうしても離れられないでいる。

さて、脱線ばかり続いてしまった。

うっかり本題である「経営計画の立て方」を忘れてしまうところであったけれど、聡明な皆さまがたのことだ、もう何をしなければならないかがお分かりになっていると思う。

「損益計算書分析」を行うことにより、「損益計算書」を見ただけでは決して分からない、各管理者が何をしなければならないか、がみえてくるのです。

「経常利益」を生み出すためには、「売上高」を上げること、そして「変動費」を引き下げて、「限界利益率」を高くし、「固定費」を圧縮していく。

「損益分岐点分析」を要約するなら、たったのこの一行で言い尽くせます。

簡単に言ってしまえば、売上を上げる努力をしながら、無駄な経費を見つけて、削げるだけ削いでいきなさい、ということだとご理解ください。

そして「損益分岐点分析」に基づく計画立案には、経営者はもちろんのことですが、「営業」・「仕入」・「現場」の担当とひざを交え、時間をかけて練り上げることをおすすめします。

では「経営計画の立て方」の具体例をあげておきます。


次回は、㈱ソフトリサーチの講習会資料をおかりして「経営計画立案の具体例」を見て、「経営計画の立て方」の最終回とすることにします。

付録



引退はしたけれど、かっての経営者の一人として、心配でならないのが「新型コロナ罹患者数」(「朝日新聞」社会面掲載記事の再加工)の動き。