十五年前、私は慶応の大学院生だった。

同じ研究室のMが私を彼のアパートへ連れていった。

そこには全共闘系の院生が七人集まり、激しい理論闘争を行っていた(口から泡をとばしていた)。議論は徹夜で続けられた。

ヒューマニズムを繰り返し口にしていた彼らが、「静かにして下さい」という隣人の声を無視した。
 
十一年前、父が狭心症で倒れ、私は大学院を中退した。

アルバイトをしたこともない二世社長と運送会社の従業員とでは、水と油であった。

私は相手を自分以下の人間と見た。

それまで学んできたマルクス経済学は(人間開放を解いたマルクス経済学は)、結局、頭の中の理解(机の上の学問)でしかなかった。

昨年の十二月二十八日、箱根で同業者の集会があった。

「サービスは相手の立場に立つことです。(かぎかっこのおしまいの読点は省くのが普通です)」(。)

そう言った講師が、いやがる芸者の胸へ、手をねじ込んだ。

院生たちは生まれ育ちの良さを感じさせたし、おしゃれでもあった。

見たところ、講師も上品な紳士であった。

外面からは、私も彼らのように見えるかも知れない。

その人間が、無意識のうちに、自らを特殊な人間と錯覚し、他人にもそうみることを強いてしまう。

人間は常に過ちを犯す。

その過ちを過ちとして受けとめ、それを矯めようとする感受性と勇気が人間には必要だ。

みだしなみはその積み重ねの上にある。

人の痛みを理解しようとしない人間が、いくら美しい言葉を使い、綺麗に着飾って、立派な立ち居振る舞いをしても、それは戯画であり、嫌みでしかない。

エッセイを書く(昭和六十年九月)

講評
言いたいことを具体的な事件や現象でわかりやすく説明しています。立派な論説文であり、注文するところはほとんどありません。

添削(表現)
激しい理論闘争を行っていた→口から泡をとばしていた
マルクス経済学→人間開放を説いたマルクス経済学
かぎかっこのおしまいの読点は省くのが普通