「おれはな、お前と違って、老後に何をするかまでをすべて考えて毎日を過ごしているんだ」
こんなことを言っていたのは、国立大学の経済学部を卒業して某都市銀行に入行し、同じ支店の仕事仲間だった美貌の女子行員と結ばれ、定年時にはコンピューター部門の最高責任者までのぼりつめた、仲のいい高校の同級生である。
計画をきちんと立て、立てた計画の通りに勉強に励み、文系クラスで一番を守り続けた友人からすれば、成績を上げることなどにはまったく無関心で、受験勉強を怠って、小説ばかりを読み耽っていたわたしの将来を心配しての言葉だったのではないかと思う。
銀行の定年退職を迎えた友人がはじめたのは、意外にも、郊外に引っ越しての庭いじりであった。
わたしもおなじく晩年を迎えて、することといえば昼寝のほかは、相も変わらず小説を読むことだ。
ただ読み方は変わってきている。
かっては小説新人賞で2次予選まで通過できたが、引退後に再び書き始めてみたものの、二年続けて予選すら通過できないという実に情けないありさま。
そこで深く反省し、「プロット(小説の設計図)」の再勉強と取り組み始めることにし、これまでに読んだ作品からいくつかを選んで「プロット抽出」を、時間をみつけては行っている。
プロット抽出のために読み返した本の中で、これは勉強になると思ったのは、濡れ場が多くてここでいうのもすこしばかり気が引けるのだけれど、男女の合作、安達瑶の『悪漢刑事 わるデカ』シリーズである。
安達瑶の書く小説は、ハラハラドキドキで、楽しく読めることはもちろんだが、警察機構や産業機構についてものすごく勉強しているようで、小説を書くための基本「プロット」を勉強するための、わたしにとっては得難い教科書となっている。
「野球を観る」のと実際に「野球をする」、「漫画を読む」のと「漫画を描く」、「写真を見る」のと「写真を撮る」、「音楽を聴く」のと「作曲する」などなどが、まったく大違いであるように、「小説を読む」のと「小説を書く」のとでは、いまさらあらためて言うまでもなく、まったく別物である。
そして山本周五郎の小説『似而非物語』のなかに、こんな言葉がある。
「それは修行者自身の問題である。道の秘奥というものは譬えようのないものであって、能力のあるものは教えずとも会得するし、その能力のないもには終生やってもだめなものだ」
友人の「庭いじり」をまねて、わたしもまた「書くための勉強」を通じて、死ぬまででたったの一度でいい、たとえ雑草のようなささやかなものであってもいいから、花を咲かせてみたいものだと願いつつ机に向かい続けている。
二世経営のみなさまも、このブログをただ読むだけではなく、自社の決算書を手元に置いて、実際に「資金三表」(資金移動表・資金収支表・キャッシュフロー表)の作成を通じで、ぜひとも経営者が知っておかなければならない「管理会計」を自家薬籠中のものにしてほしい。
話は変わります。
コロナ禍で、当社の資金繰りはひっ迫して、内心、倒産も覚悟していました。
ところが、各取引銀行に提出した資料を見て、当社の三十七歳の社長が「資金三表」の作成に会得している、と深く心に感じ入った支店長(当社のメインバンク)が、「ここまで計数をわかっておられるなら、安心して資金をお貸しできます」、と資金援助を申し出てくれました。
再びコロナ禍が起こるようなことがあれば、そのときはそのときで、またあらたに資金の貸し出しを考えましょう、とも言ってくれたそうです。
わたしが会得するのに、何十年もかかったというのに、若社長はこんな短期間に、よくぞ「資金三表」の作成をマスターしてくれました。
せっかく減らし続けてきた借金がこれでまた増えてしまいますけれど、とにもかくにも(コロナの終焉が条件ですが)、これで会社は生き延びられる。
そこで気になるのが、コロナ罹患者数の推移。
朝日新聞社会面掲載の資料に基づいて再加工をしてみました。
そして以下はわたくしが住まう埼玉県の市町別感染者数(朝日新聞埼玉面掲載資料)