亡父の生家は、曾祖父の代に、二度火事に遭っている。だから、過去の記録はすべて焼失したと思われていた。ところが、燃え残って物置として使用していた、かっての隠居部屋を叔父が整理していたところ、箪笥の引き出しから、一枚の書き付けが出てきた。
変色して茶色くなり、虫食いのある和紙には、「熊井家系統概略記」の表題の下に明治四十二年十月二十四日の日付があり、高祖父の次弟である忠兵衛の名も記されていた。
初代が信濃国上水内郡から上野国勢多郡、現前橋市に移り住んできたのは文化年間のことである、とまでは口伝で分かっていた。だから家紋と姓を頼りに、亡父も農家の後を継いだ叔父もそして父の従兄弟たちも、みな一度は信州の地に足を運んでいる。しかし、誰も、これまで遠祖の菩提が祀られている地を探し出し得ないでいた。
「大岡村大字川口熊井家ノ末統ニシテ、コノ家主ヲ茂兵衛トイイ、ソノ弟分家シ輿市右衛門ト称ス 、輿市右衛門ノ次男亀之助コソ当熊井家ノ祖先ニシテ……」の、叔父から預かった書き付けを手に信州に出掛けたのは、秋も深まった、十月二十五日の朝六時のことであった。
字川口の地名は地図で分かっていた。大字甲という地番に四軒の熊井姓の家があることも、図書館の電話帳で調べてあった。
小雨の降りしきる高速道路を、関越自動車道、上信越自動車道と乗り継ぎ、長野自動車道に入ってすぐの「更埴」インターで下りる。県道七十七号をすぐ左に折れ、七十号を三十分ほど走ると、九時過ぎに大岡村に着いた。
国道十九号「道の駅」で、それは美味しい味噌汁のついた岩魚定食を食べながら、どのお宅から訪ねてみようか、と妻と話しているうちに、やがて窓外の雨も止んできた。
犀川の対岸に赤く色づく闊葉樹の葉が、差してきた朝日に鮮やかに燃え始める。妻が代金を払っている間に、「岩魚定食と味噌汁が美味しかった」とお礼を言いながら食堂のおばさんに尋ねると、それならと、国道沿いで酒と煙草を扱っている店を教えてくれた。
店番をしていた奥さんは、気さくな方だった。
私たちを炬燵に招き入れるとお茶を入れてくれた。奥さんの「義父さん、ちょっとお願いします」の声に、奥から現れた七十過ぎの白髪で穏やかな顔をした人こそ、熊井家三十一代惣一郎氏であることを、すぐ後になって知った。
氏は書き付けに目を落としながら、「茂兵衛なら先祖にいるが」と呟いた。 案内してくれた墓は、山を背負うようにして立っていた。
「今は価値はなくなったが、燃料が石炭・石油に変わる前まで、木炭、薪、材木にと、山は金の生る木だった。その山を、こうしてご先祖様に守っていただいていた」
墓地の広さは四十坪余あり、人の背丈ほどもある苔むした白い墓石十一基が、真一文字に横並びしていた。その中央にすっくと「熊井家先祖之墓」と書かれた石碑が峙っていた。
石碑の後ろに回って、石に刻まれた名前に目を走らせ、私たちは思わず手を取り合った。文化四年に茂兵衛の名がある。前橋別家初代亀之助が上野国勢多郡に移り住んだのも文化年間、時期が一致している。
やっと見つけた! ようやく探し当てた! 妻と私は墓石をひとつひとつ撫でるように見つめ、その一字ももらさず、ノートに書き留めていった。叔父たちの喜ぶ顔が目に浮かぶ。わたくし太郎の名は総本家初代から付けられたと亡き父から聞かされていた。その言に違わず、初代に熊井太郎源忠基の名がある。
実を言うと、私はこれまで「源氏の出だ」と公言して憚らない父や叔父、父の従兄弟たちが、内心恥ずかしくてならなかった。日本人の祖先を辿れば、みんな源平藤橘のいずれかになるだろう。しかも、その多くが、戦国時代に成り上がった覇者たちが、家柄に権威をつけるため、作文したものだと聞いている。まして亡父の生家は、明治になって村長を務めはしたものの、代々農民である。
先祖の名を写し終えるまで、惣一郎氏は傍らに立ち、口元に微笑を浮かべて待っていてくれた。
そして、ノートを閉じた私たちに、「熊井の家は、保元時代にまで、遡れる」、と誇らしげに語った。
事実『吾妻鏡』・「文治二年(一一八六)」・「平安末期の信濃国の荘園」には、筑摩郡に「熊井郷」が載る。その前年の文治元年、頼朝は諸国に守護・地頭をおいている。鎌倉時代の仏教説話『沙石集』にも「熊井の地頭」の名がある。しかし疑問が残る。何故なら大岡村は更級郡、「熊井郷」は筑摩郡である。離れすぎている。
「武田軍に攻め落とされて、大岡村に逃れ住んだのです。筑摩郡塩尻市片丘という処には城跡と、かっては氏神であった熊井神社が残っています」。惣一郎氏が言う通り、手元の地図を見ると「熊井」の地名とともに、城跡と神社の記号があった。
そういえば、もう三昔以上も前のことだが、大学の「日本経済史」の時間に、「鎌倉幕府を支えた東国御家人の本拠地は、十一世紀から十二世紀ごろその一族が開発したとされる地であり、名字の地として、その地名を名乗っている」。また「開発地主には国司としての任期を終えてからもそのまま土着して豪族となったものが多い」と学んだ覚えがある。
承平元年(九三一)『和名類聚鈔』に載る「信濃国十郡六十三郷」にはまだ「熊井郷」は存在しない。熊井の先祖は、以前から住んでいた伝統的な豪族の子孫ではなく、赴任地に開拓地主として住み着いた、都では「うだつ」のあがらない下級貴族の一人だったのかも知れない。
『長野県歴史大年表』と『信濃史誌』を図書館で見つけた。熊井城は守護大名小笠原深志家の前面の固めで、天文十四年(一五四五)六月十四日に武田軍のため落とされ、天文二十一年信玄によって再建された、と書かれていた。塩尻盆地を見下ろす高ボッチ山(ボッチの由来は「法師」。巨人伝説あり。諏訪湖はその法師の足跡の名残とか)のなだらかな扇状地に築かれた古城は鬱蒼とした森に変わり、城跡の真西、約七百メートルのところに「北熊井神社諏訪社」は村社として鎮座していた。
他のどの家だって代々つながってきている。だからからこそ今がある。それは言うまでもない。しかし、我が家のようなごく普通の家が、三十一代も前まで記録が辿れるなんて、やはりすごいことだと思う。嬉しいかぎりだ。
墓碑に初代から元和までの祖先一人一人に付記された「源」の名が、明暦三年に消えている。『長野県の歴史』(山川出版)には次のように記されていた。
…「天正十八年(一五九〇)七月十三日、小田原北条氏を滅ぼして全国統一をはたした秀吉は知行割を発令し、家康を江戸城に入れた。家康配下の信濃の領主は、みな関東に移ることになった。これらの領主の移封には、信濃はえぬきの武将や侍(地侍・郷主)・足軽・中間らが随従する。彼らは信濃を去るか、百姓として残るかの岐路に立ち、苦渋して本家と分家、兄と弟の二つに分かれて対処した」。きっと、熊井の家も、そのときに帰農したのであろう。
数日後、惣一郎氏から手紙を頂いた。
「よくぞ遠国より山深い信州の此の地をお尋ねくださいました。お話いたしましたとおり、私どものところこそ、熊井茂兵衛の末裔に、間違い御座いません。何時にても墓参にお出でください。贈り物は早速墓前に供えました」
(注)
平成十六年の秋、大岡村を再訪した際に、惣一郎氏から「昔は、刻み煙草の製造販売と煙草葉の栽培もしていてね、煙草葉はいろいろな煙草葉と混ぜ合わせないと美味しくならないものだから、ご先祖は毎年、煙草葉の産地である水戸まで仕入に出かけていた。製造していた刻み煙草の名前は『水鏡』といっていた」とお聞きしたときは、本当に驚きました。というのは私も妻も、亡父からよく、高祖父茂平次が「水鏡」という刻み煙草を好んで喫していた、と聞かされていたからです。
惣一郎氏は平成二十二年に八十六歳で亡くなられました。大岡村をお訪ねするたびに新たな情報いただき、ただただ感謝しています。
エッセイの書き方