従弟の素行君と、映画「ある愛の詩」を見に行ったのは、今から四十年ほど前のことである。私は当時彼の家庭教師をしていた。

ステーブマックイーン主演映画の「華麗なる賭け」とか「栄光のル・マン」ならともかくとして、大富豪の息子とイタリア移民の菓子屋の娘の悲恋物語などを何故選んだのだろうか。その理由は忘れてしまった。

フランシス・レイの叙情豊かな哀しい調べとともに館内の明かりが徐々に消えていくと、スクリーンに、雪に覆われた誰もいない屋外スケート場の観客席に一人座って、物思いに耽る男の後ろ姿が映し出された。そして、「二十五歳で亡くなった女、美しく聡明で、モーツアルト、バッハそしてビートルズと私を愛した女」の字幕。

裕福な家庭に育ったハーバードの学生オリバーが、音楽を専攻するジェニファーと図書館で出会い恋に落ちる。父親の反対を押し切って結婚。法科大学院に進学。経済的援助を打ち切られ困窮するオリバー。教師となって家計を支えるジェニファー。貧しくも幸せな新婚生活……。

医者からジェニファーが白血病で余命わずかであることを知らされたのは、大学院を修了したオリバーが、弁護士となって法律事務所に勤め始めたやさきのことだった。

二人の永久なる別れを、カメラがベットの真上から撮し続ける。オリバーにジェニファーが囁く。「元気に生きて!」。静まりかえった館内のそこここから、啜り泣きの声が聞こえてきた。涙に濡れた従弟の頬の上でも、スクリーンからの反射光が、きらきらと踊っていた。

従弟が二十八歳になった年に、同じ職場で働く娘さんと恋をした。
娘さんは高校を卒業したばかりだった。
「早すぎる」と娘さんのご両親は結婚に反対したが、二人の熱意についに折れて、私たち夫婦が仲人を頼まれた。

楚々とした娘さんで、立ち姿が美しく、従弟よりも少しばかり背が高かった。

新婚旅行で二人は、三ヶ月間をかけて日本各地を自動車で巡った。

旅行から戻って間もなく、「二人だけの時間をできるだけ多く持ちたい」と、それまで勤めていた徹夜仕事の多い会社に見切りをつけると、昼間仕事が中心だという訪問看護会社の送迎車運転手に転職した。

二人の相性は良く、翌年長男、三年後に長女、それから五年して二男が誕生し、従弟が一人っ子だった叔父の家は、急に賑やかになった。

同性を見る女性の目がなかなかに厳しいことを、亡きわが母から痛いまでに思い知らされた妻。

「和枝さんは心根がとても優しくて、家庭的でもあるし、慎み深く、本当にいいお嫁さんだし、叔母さんはとても賢い人だから、大丈夫とは思うけれど……」としきりに心配していた。

しかし、それは杞憂に過ぎなかった。

「娘が欲しかったの。だから可愛くて、可愛くて」

和枝さんの不自然な歩き方に気づいた従弟が、隣接する市の大学付属病院に連れていき検査を受けさせたのは、一昨年の暮れのことであった。

脳腫瘍の疑いで入院することになった昨年正月三日の朝、和枝さんから電話があった。身じろぎもせず受話器を握る妻の目に、盛り上がる涙が見えた。

腫瘍サンプル摘出の開頭手術後、担当助教授からの説明に、家族の全員が凍てついた。

生命維持機能を管理する脳幹の真上に、四センチ大の腫瘍があって、それを摘出するのは現代の医学の水準では不可能。余命は三ヶ月、長くもって一年だというではないか。

放射線治療で長い黒髪は抜け、抗ガン剤投与のたびに嘔吐。体力は瞬く間に消耗する。病状は急速に進行して、和枝さんの意識は日毎に薄れていった。

ほんの僅かでも、無に向かって限りなく落下し続ける意識を覚醒させようとして、和枝さんの両親は昼間、勤めのある従弟は夕方から、叔父・叔母そして三人の子を連れて病院に駆けつけ、一日も欠かすことなく呼びかけ続けた。

そんな家族全員の必死の思いに支えられて、告知された一年を乗り越えた。話しかけたり体に触れたりすると和枝さんが反応してくれる。家族のそんなささやかな喜びさえ、意識はもうないと医者から冷たく否定される。

ところが、見舞った妻が呼びかけると、見る間に目尻から涙が流れ出て、頬をすーつと伝って落ちていくではないか。

一年八ヶ月に及ぶ闘病生活の末、和枝さんは逝った。

以下は、三人の子たちの弔辞。
「お母さんと一番長く一緒にいられたボクだけど、親孝行をひとつもできなかった。ごめんなさい」(高校三年 長男)

「これからはお母さんの代わりを私がしますから、安心してください」(中学三年 長女)

「ボクは、一年八ヶ月も病気に負けなかったお母さんの子だから、これからどんなに辛いことが起きてもガンバルよ!」(小学校四年 二男)

子供たちの弔辞を項垂れて聴きながら、ただ涙するばかりの素行君に、着物姿の和枝さんの遺影が、「元気に生きて!」、と優しく語りかけていた。

追記

二十八歳になった長男は、それは愛らしい娘さんに恋をして、この秋に人前結婚式を挙げた。きちんとお母さん代わりを務めあげたしっかりものの長女も、同じ秋に恋愛結婚。
二人のお腹には、和枝さんの血を引き継いだ赤ちゃんがいる。
美容師になった二男は、結婚式のときに、義理の姉と実の姉の髪を美しく結い上げた。

エッセイの書き方