都内に出る時は、交通渋滞を避けて電車を利用する。高架鉄道である埼京線は、見晴らしが利くから好きだ。天気さえよければ西の方に、富士山や秩父山脈がはっきり見える。
沿線には、新興住宅地が果てしなく続いている。その住宅地の中に点々と、まるで瀬戸内海の小島のように小さな森が浮かんでいる。この地が約六千年前には、東京湾の入り江だったことをほうふつさせるかのように。
「スギのこずえが枯れているわ」
吊革につかまって景色を見ていた大学生らしき二人連れの、女の方が目を細めて言った。体格のいい、頭一つだけ女よりもノッポの男が身を少しかがめた。
「先週、ツーリングで秩父に行ったんだ。山のところどころに、立ち枯れた木があったよ。あれも公害のせいかな」
武蔵浦和で、たくさんの男女の高校生が乗り込んできた。私は押されて二人連れから離れ、周りは、詰襟の学生たちばかりになった。息子と同じ年頃である。たわいのないことを話しては、ゲラゲラと笑っている。
学生たちの頭の上にのぞく、二人連れの男の方の横顔を見ながら、(山中で立ち枯れた木を見れば、知らない人はどれもこれも酸性雨によるものと早合点してしまうかも知れないな)、と私は思った。
植林した苗木を風雨から守るために、広葉樹の大木をわざと山に残しておく。苗木が根を張って、今度は日光を必要とするようになったとき、大木は皮を剥かれる。これを「剥き枯らし」という。立ち枯れた木はやがて朽ちてボロボロになり、苗木の栄養になる。
埼京線は北赤羽を過ぎてトンネルに入った。窓ガラスに映った顔を見て私はハッとした。六年前に亡くなった母に生き写しだった。
母にだって、してみたいことがきっとたくさんあったのに違いない。しかし、剥き枯らしの木となって私を育ててくれた。今度は私の番だ。が、それは真っ平御免である。
エッセイの書き方
講評(元朝日新聞記者 斎藤信也先生)
今日の文、結びにすばらしい決着がありました。これは第一級の結び。なんとみごとな連想であり着眼であろう、と脱帽しました。
まさしく人間の子供たちのために人間の親たちは、そのほとんどが剥き枯らしとなる。
なんとも言いようのない現実。
さびしい、悲しい、つまらない、きびしい、なさけない、すばらしい、涙が出る、ありがたい、たのもしい、自然の理だ。それらが一切、ミキサーにかけて一緒にされたような「人の世の光景」
いつもながら貴方の作品にはオッ!!と叫ばせるものがある。
エッセイの名人です。