私の家の庭は広さが二十坪ほどで、木は一本もない。芝生だけである。その芝生に生えてくる雑草は、驚くほど伸びが早い。放って置くと、一週間で、ゴミ袋にいっぱいの量になる。特に夏草は生長が著しい。二、三日もすると、夏草の方が芝よりも目立ってしまう。

 帰省先の金沢から八月十七日に戻り、庭を見ると、たったの四日間家を留守にしただけなのに、芝生には夏草がはびこっていた。

 すぐに草いきれのする庭に出た私は、蚊に刺されるのもかまわずに、夏草を抜いていった。いくら生えても、あきらめずに次々にとり続けていくと、長い間には芝の目が込んできて、草は地面まで根をおろせなくなる。少しも抜くのに力がいらない。(そうなれば、抜くのに少しも力はいらない。)

 夢中になっていた私は、私を呼んだ(削除)妻の声に気付かなかった。肩をたたかれて顔を上げると、妻が立っていた。「大きな声で何度も呼んだのよ。お茶が入りました。あなたに集中力がないなんて、信じられないわ」

 教育ママの走りであった母が妻に言う(いうのである)。私に集中力があったらどんな名門の大学にでもはいれた(入れたろう)、と。要らざるお世話だが、高校時代、勉強をしようとするといろいろな思いがブクブクと浮かんできて、じっと机に向かっていられなかったのは確かである。

 釈迦が菩提樹のしたで、いろいろな魔性が現れてはたぶらかそうとしたが、ついに悟りの境地に達したという。しかし釈迦ならぬ、どこまでも俗物以外の何者でもない身にとっては、青春の日の誘惑を退けることなど、無理以外のなにものでもなかった。

 大学生になってからは、(そんなとき、浮かんできた思いを)小説めいたものに仕上げていくと、しばらくの間はその思いに捕らわれずにすむ(なくなる)ことを知り、原稿用紙にそれを書き記すようにした。一晩に八十枚の原稿用紙を費やしたこともあった。

 激しく、また煩わしくもあった思い(青春の日の誘惑)を書き記すことで頭の中から取り去ることを覚えて二十年がたった。十代から二十代にかけてあれほど願いながらかなわなかった心の安らぎを、中年になってから、曲がりなりにも得ることができるようになった。

 縁側に座ってお茶を飲み、ゴミ袋からあふれ出た夏草を眺めつつ、私は人生の夏が過ぎてしまったことを知った。机の上の原稿用紙の束は(近年、)少しも減らず、ほこりをかぶったままだ。

四十代の文章修行(昭和六十二年十月課題「草取り」)

講評
 初めて拝見するのですが、とてもしっかりした文章力と同時に、物の見方の新鮮さ、面白さというような才能を感じます。

「あなたに集中力がないなんて……」と唐突に妻にいわせ、その意味をときほぐしながら「人生の夏が過ぎた」と結語へつなぐあたり、単なるうまさというより、一つの才能でしょう。

随筆とは何か、随筆と普通の文章はどこが違うのかと問われても、私には明確に答える自信はありませんが、こうした味わい、面白さは随筆の一つの特徴だろうと思います。